FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

第五話 裏切り


 ゴールデンウィークに気の置けない友人と旅行に行くことになった。
 長年勤めた教員の仕事も定年退職を迎え、第二の人生の門出を祝うつもりでもあった。

 私の夫は五年前、五十代半ばで思いがけなく脳卒中で倒れ、帰らぬ人となった。友人は若い頃に離婚しており、二人とも家を留守にしても気兼ねする人がいないのが共通項だ。私たちは幼なじみで、親以上に何でも言い合える仲である。一緒に温泉に浸かり、ごちそうを食べ、中高生の修学旅行のように語り明かして今までの人生の鬱憤を思いっきりはらそうと約束していた。
 彼女の方はまだ現役の管理職で、平日は多忙だからと、行き先は一任された。私が選んだのは、東京から遠路はるばる、熊本の山奥の赤川温泉という秘境と言われる源泉だ。

 何故、そんな辺鄙な行き先を選んだのかと言えば、私はこの旅行に、ある一つの目的を持っていたからだ。それはかつての恋人を遠くからでも見てやろうということだった。強く恨みながらも、どこかで未練を断ち切れないその男の、老醜を見てやりたいと思っていた。私は若い頃、その男に裏切られて、心に深い傷を負った。自分の一部という比喩でさえ足りないほど愛したその人に裏切られたとき、私は死のうと思った。だが、死ぬのを思いとどまったのも、また、この男が私をひどく失望させたからだった。

 四十年も前の話だ。別れ話に落ち込んでいる私のもとへ、彼はこんな手紙をよこしてきた。
「ごめん、マコ。どうか、許してくれ!
俺は、実は熊本の郷里で温泉旅館の仲居をしてるとびきり美人な女と、将来を誓い合っている。だからもう俺は、大学なんて出ても仕方がないから、郷里に戻って温泉の番頭になります。マコには済まないが、その女のことを、俺はどうしても放ってはおけない。その人のそばにいてやりたいんだ。もう、あなたとは一生会うことはないだろう。本当に済まないと思っているが、どうか俺のことは、今日限り、きっぱり忘れてください。祐介」

 その手紙のあまりの軽薄さに、私は泣きながら笑ってしまった。死のうと思ったことさえ、すっかりばかばかしくなった。こんな軽薄な男のために命まで捧げられるものか、と思ったものだ。
 だが、その時から私の性格は微妙に変化した。ひたむきで真っ直ぐだった私が、猜疑心の強い冷笑的な性格になったのだ。とはいえ、それは私だけに分かる心の奥の変容であり、周囲は知るよしもないことだった。いわば、わたしの中でもっともピュアな部分が壊死したような感じ、と言えば伝わるだろうか。

 数年後には、ようやく心の傷も癒えて、私は五つ年上の職場の同僚と結婚し、円満な家庭を築いた。夫は平凡だが、穏やかで優しい人だった。子どもを二人、産み育て、夫に先立たれて苦労はしたものの、その子等も、もう自立してそれぞれの家庭を築いている。

 さて、二泊三日の旅の初日。あの男が郷里で、どんなふやけた好々爺になっているか見てやろうという意地悪な気持ちを抱えて出発した。きっと心の奥底に恨みが沈殿したままだったのだろう。いつか見ていろという復讐心が、冷え切った愛の裏返しとして、地中奥深いマグマのように、ふつふつとたぎっていたのだ。だからこそ、誰より努力して、自分を磨き、優しく堅実な夫と結ばれ、誰の目にも幸福な家庭を築いた。その後も、老いは避けられないとしても、人並み以上には若々しく引き締まった体型を維持してきたつもりだった。

 あの男が執着したという旅館の仲居が、どんな美人だったか知らないが、六十になって果たしてどれほど美貌を保っているものか、見てやろうじゃないの、という敵愾心を抱いていた。美醜など、還暦にもなれば、大同小異に違いない。百歩譲って、それでも、参った、と思うほどの美人だったならば、悔しくはあるが、ある種の納得もいくだろう。

 私は、亡き夫に、心の中で、ごめんなさい、と手を合わせてから、古びた住所録を開き、熊本の山奥にある男の実家の住所を手帳に書き込んだ。まさか訪問するわけにもいかないので、友人につきあってもらい、ただ近所まで行ってみるだけのつもりだった。友人も、同じ大学の同級生だったので、彼と私のいきさつは十分過ぎるほど知っていた。
「賛成はできないけど、行ってみて気が済むのならつきあってあげるよ」
 と、苦笑いしながらも同行してくれた。

 タクシーの運転手は、「お客さんたち、ようこんな秘境においでなさったですねえ」と驚いていた。車一台がやっと通れるほどの山道が途絶えたところに、小さな集落があった。私は、お札を運転手に渡して、戻るまで待っていてくれるよう頼んだ。
「暗くなる前にゃ戻ってくださいね、街灯もなかけん」と、運転手は相好を崩した。
 友人と私は周辺を散策した。けもの道としか言いようのない落ち葉の堆積した山道を踏み分けて行くと、大きな滝にたどり着いた。滝の向こうにはひなびた温泉宿が見えた。手前の窪地に小さな集落があった。三、四軒の家があり、どの家にも男の名字と同じ表札がかかっていた。そのうちの一軒の軒端に、干し柿を干している老婆がいた。見るからに齢八十をとうに過ぎた腰の曲がった老婆だった。

 私は、老婆に話しかけた。
「この近所に昔、友達が住んでいましてね。赤松祐介、っていう名前だったと思うんですが。ご存じじゃありませんか?」
 老婆は、目をしょぼしょぼさせて、しばらく黙っていた。耳が遠いのかと思い、もう一度同じことを大きな声で言うと、細いしわのような目尻に、じゅうっとしみ出すような涙があふれた。

 「祐介なら、あたいの息子ばってん、もう、だいぶ前に死にましたばい」
 「えっ?・・・」私は耳を疑った。
 「そりゃもう、いい男じゃったとよ。あたいの自慢の・・・」

 私は、あまりの驚きで動悸が激しくなった。隣にいた友人が、そっと私の顔をのぞき込む。
 お婆さんはじいっと私の顔を見ると、寂しそうに何度もうなずいた。あたりにとどろいていた滝の音が、ふと遠くなった。
 その人は、干し柿の渋で黒ずんだ軍手を外すと、それを割烹着のポケットにねじ込み、私たちを家に招じ入れた。
 「ようおいでなすったですね。あんたがた、友達ならば、祐介の仏壇に、ちょっとお線香なっと、あげてやってください」

 私と友人は思いがけず祐介の実家の仏間に座り、鴨居の上に並んだ四枚の遺影に見下ろされて座布団にすわった。
 遺影は、右から祐介の祖父母、父親、祐介、と並んでいるようだった。私は思わず、祐介の、別れた頃そのままの笑顔を、胸が締め付けられる思いで見上げ、見つめた。黒目がちの瞳、少年のようにとがったあご。額にかかった前髪。老人になった祐介を見てやろうと思ったが、それはかなわなかった。私はまたしても裏切られたのだ。知らず知らずのうちにほほを涙が伝っては落ちた。祐介は、若くして亡くなっていたのだ、その事実が私を打ちのめした。

 「私たち、大学の友人でして、ずっと東京に住んでたものですからね、まさか、祐介さんが亡くなっていたなんて、知りませんでしたの・・・」
 私がまともに会話を交わせそうにはなかったので、友人が代わりに祐介の母親と応対をしてくれた。
 「そういえば、祐介さんは、確か、旅館の仲居さんと結婚なさったと聞いたんですけど」
 友人が、私に代わって疑問を口にする。
 「はあ?・・・いやいや、そげなことはなか。まあ、仲居っちゅうたら、あたしがわっか頃からずうっと、赤川の温泉で仲居ばしよったばってんね(私が若いころからずっと仲居をしていたけれどもね)」
 老婆は、遠くを見るように、皺に埋まった目を瞬きながら、とつとつと語った。
「あの子はですね、ほお、かわいそか、(ああ、かわいそうに)いっぺんも、結婚なできんやったとよ。あの子はな、東京の大学まで行きよったとき、頭のよか、気持ちのやさーしか女の人と知りおうたち言うてね、母ちゃん、俺あ、その人と結婚ばしたかけん・・・(結婚をしたいから・・・)、ち、言うとったばってん、なにせ、どうしたこつか、急に白血病やら、なってしもうたけんねえ。もう、プロポーズはせんやったちいうて(しなかったと言って)、泣く泣く帰ってきたとですよ。そいから、人吉んほうの病院で治療ば受けよったばってんか、そんまんま半年もせんうちに、逝ってしもたっですもん・・・」
 私は目の前が暗くなってしまった。比喩ではなく、本当に目眩がして、仏壇の前で畳に崩れたのだ。
 お婆さんはおろおろと心配して、私を隣室のソファに横たわらせてくれた。

 しばらくして回復すると、熱い葛湯をごちそうになり、お婆さんの語る佑介の思い出話に耳を傾けていたが、遠くでタクシーのクラクションが聞こえ、私たちは慌てて腰を上げた。
 帰りしなに佑介のお母さんが仏壇の引き出しから黄ばんだ封筒を出してきた。彼女はしわだらけの手を震わせながら、それを確かに私に向けて差し出した。
 「あの子が好きだった女性に、これば渡してくれんですか。あの子が亡くなる間際に、もしもいつか女の人が訪ねてきたら、これば渡してくれっちゅうて頼まれたとばってん、わたしゃもう、いつあっちに行くかわからん歳になったけん、どうか、よろしゅうお願いします」
 
 「お母さん、これは責任もってお引き受けします。ご安心ください」
 と、友人は力強く言い、言葉をなくしている私の代わりに、彼女の小さな手を握った。私は目が涙で曇って、老婆の顔を見ることもできなかった。
 佑介が病魔に冒されなかったら、いや、たとえ短い間だったとしても、彼が私と連れ添うことをあきらめないでくれさえしたら、「おかあさん」と呼んだはずだった人なのだ、と思うと、胸が苦しくなった。

 タクシーに乗ると、友人がぽつりとこう言った。
「あのおばあさん、きっとマコが佑介の恋人だったことを分かっていたんだと思うよ」
 私は涙がとめどなくこぼれ落ちた。愚か者だったのは私の方だったのだ。祐介を信じる心が欠けていたのだ。なぜ、あんな手紙を嘘だと見破ることができなかったか。なぜ、すぐに郷里に彼を追いかけて行かなかったのか。後悔が波のように繰り返しこみ上げてきた。
 だが、もう嘆いても悔やんでも仕方がない。長い年月が流れた。祐介は、遺影となって、四十年もの間、訪ねてもこない私をどう思っただろう。あのお婆さんは、祐介に託された手紙を渡す相手を待ち続けて、どう思っていただろう。息子が愛したほどには、その女の想いは深くはなかったのだと思ったことだろう。

 温泉宿に落ち着くと、友人は気を利かせて、お湯に浸かってくるね、と部屋を出て行った。私は、一人になって、ゆっくりと封を切った。便せんを開く手が震えた。そこには、水茎の跡も鮮やかに、懐かしい祐介の涼しい字が並んでいた。

「愛するマコへ。
 僕は、君にあんなにひどい手紙を書き送って、本当に悪かったと思っている。僕はちゃんと真実を告げるべきだったのだろう。今、これを読んでいる君は、きっと僕の死を知って、驚いているだろうね。僕には、君の他に恋人なんて、一人もいなかったよ。
 でも、嘘でもついて別れなくては、君を若い未亡人にしてしまうと思ったんだ。
 君は、僕の裏切りを怨んだことだろうね。そして、僕らの恋は偽物だったのか、と苦しんだことだろう。
 そんなふうに、君の心を傷づけたことを、深く詫びたいと思っている。どうか、許しておくれ。
 僕は、もうすっかり病魔に冒され、こうしてペンを持つことさえ精一杯だから、君に会って謝ることができそうにない。本当に済まなかった。
 君がまた新しい恋をして、幸せになることを心から願っているよ。
でも、僕は、天国で君を待っていたい。五十年後、いや、百年後でもいいよ。あっちでのんびり待っているから、君はゆっくり、僕の分まで精一杯生きて、幸福な人生を送ってください。そして君が天国に来たら、君のご主人と決闘をしてでも、また君を僕のものにするつもりだ。今度は、何が何でもね。愛しているよ、マコ。君は僕のすべてだった。祐介」

                                   FIN
スポンサーサイト



第四話 まばたきの声


 電車は混んでいた。今日は、秋葉原で、大勢の有名な声優や漫画家が一同に会するイベントが催される日だ。ごったがえす駅を抜け、お茶の水で総武線に乗り換えた。
(夕方来れば良かった)
 電車に乗るなり、そう思った。様々なコスチュームの若者たちが、着替えでも入れているのか、手に手にキャスター付きのトランクを引いて立っている。足の踏み場もない。
 おまけに、天気が悪い。寒空に冷たい雨が降り出して、電車のガラスが白く曇っていた。外気温と差があるのだ。乗客が手にしている傘から滴る水滴も、うっとうしい。
 僕は今日、秋葉原で無線機のある部品を買うために東京の西の外れ、五日市から出てきた。近いところで昭島や立川にも大型の電器店はあるにはあるが、僕が探しているある小さな部品は、ここまで出向かないことには入手できない。もちろん、ネット注文で取り寄せることは可能だが、どうせなら数種類のメーカーを見比べて選びたいと思い、遠路を電車で揺られてきたというわけだ。
 僕は、鞄から取り出したアマチュア無線の専門書を開いた。今日、買い求める部品について、いくらかの予備知識を仕入れようと、広告をめくる。
「いてっ」
 僕の足を誰かが踏んだ。思わず声を上げてしまい、周囲の目がいっせいにこちらを向いた。スーパーサイア人のように髪を逆立てた背の高い男が、振り返って、僕をじろりと睨んだ。顔はメイクを施し、悪魔のように目尻に黒いアイラインを塗っている。耳たぶには、おびただしい銀のピアスが並び、太いチェーンのネックレスを何本も下げていた。
「あ、おたくの足、踏んじゃってました?すみません!」
 彼は、思いがけず甲高い声で、心持ち腰を曲げながら、謝った。拍子抜けした。
「あ、いえ、大丈夫です」
 僕も、ちょっとだけ顎を出して挨拶を返した。

(ふう・・・)
 内心でほっとしたのを隠すように、僕は反対側を向く。ちょうど左右のドアの真ん中辺りに立っていたので、少し体を回せば、どちらからでも降車できる。次は秋葉原駅だ。開くドアはどっちだろう?右かな、左かな、そんなことを考え、車内アナウンスに耳を澄ました。その時、僕は見た。人と人の隙間から、少女の美しい瞳が、こちらをじっと見て、まばたきをしたのを。
 僕はすぐに目をそらした。少女の手を、さっきの男が握っていたからだ。二人はこの満員電車の中でまで、しっかりと手をつないでいる。恋人同士なのだろう。
 僕は、ほんの数秒、サイア人にけどられない程度に、少女をすばやく観察する。美少女だった。長い髪を左右の高いところで結んでいる。長い耳のウサギみたいだ。服は上下ジャージで、部活の生徒が着替えずに下校しているのかもしれない、と僕は思った。顔はひどく幼い。どこか怯えたような表情に見えた。
 男が首をねじって、電車の中吊り広告を見上げた。週刊プレイボーイの広告だった。好きなAV女優でも見つけたのか、上目遣いで食い入るように見つめている。その隙をつくように、僕は少女が僕に向かってまばたきを繰り返すのを見た。僕は、はっとした。少女のまばたきが、僕にメッセージを伝えている、と感じたからだ。まさか、と思った。一度目をそらし、何気ない風を装って、もう一度見た。やはり、間違いない。少女が僕に助けを求めているのだ。
 僕は、無意識に物の動きをモールス信号として捕らえる癖があった。少女の繰り返すまばたきを音に置き換えると、「トントントンツーツーツートントントン」となった。短いまばたきを三回、少し長く目を閉じることを三回、それからまた、短いまばたきを三回。男が中吊り広告から目を離し、少女の方を向くと、まばたきはぴたりと止まった。
(まさかなあ、偶然だろう)
 僕はそう思った。サイア人がじろりと僕を睨んだ。僕が少女を見ていると思ったのかも知れない。僕は下を向いた。難癖でもつけられたら、たまったもんじゃない。
 手元のケータイを見た。ナビで検索した乗り継ぎの画面を開く。秋葉原駅に着くまであと一分だ。僕は雑誌を閉じて、鞄に戻す。
(めんどくさいな、早く着いてくれ)
 僕は、祈るような思いで、スマホからふと目を上げる。すると、また少女が例のまばたきをした。トントントンツーツーツートントントン・・・。
(?)
 僕は、表情で問い返した。本気で助けを求めているのか?それとも、ただの偶然か?少女は何も言わない。無表情のままだ。
 再び下を向いて、スマホを見るふりをする。ところが、今度は、少女が、床とつま先を付けたり離したりして、やはり救難信号を送ってきた。混雑しているので、男から少女のつま先は見えないはずだ。おかげで僕は、じっと少女のつま先を見ることができた。
音も立てず、彼女は白い運動靴を履いた足を動かす。顔は反対を向けたまま、つま先の微かな動きで、僕に信号を送り続けた。
 電車が減速し、男がドアの方へ移動する。降りる用意をしているのだ。車内アナウンスが入った。
「次は秋葉原、秋葉原です。左のドアが開きます。ドア付近の方、ご注意ください」
 男は、乱暴に、少女の手をぐいっと引っ張った。顎をしゃくって、降りるぞ、という仕草をする。
 ドアが開くまで、まだ少し時間があった。電車が駅に滑り込む。ゆっくり停車する。大勢の乗客がギュウギュウと降車口に向かって体をねじる。その時だった。彼女は、ドアの曇りガラスに、すばやく書いた。本当に、とても小さく、「・・・― ― ―・・・」と。
 その瞬間、袖口からのぞいた細い手首には、おびただしい青痣があった。よほど、強く捕まれたのか、それとも、何かに挟まれでもしたのか・・・。
「着いた、降りるぞ」
 男が首をひねって少女の方を向いた。その間際に、少女はてのひらで素早く、その落書きを消した。
 僕は、呆然として、ドアガラスの消されたメッセージを見た。五指の形に水滴が垂れていた。それがまるで、女の子の涙に見えた。

 翌日、テレビのニュースは、彼女のニュースでもちきりだった。男に誘拐されて、軟禁されていた少女が警察によって救出されたのだ。
 彼女のSOS信号に気づいた僕は、秋葉原で電車を降りると、二人の後を尾行した。尾行は簡単だった。その時間に電車を降りた乗客の中で、同じ方向へ移動する乗客が大勢いたからだ。
 やはり、目的地はアニメ祭りの会場だった。二人が有名な漫画家のサインをもらうための行列の最後尾に並んだのを見届けると、僕はきびすを返し、交番に向かったのだった。

 僕の言うことを交番の巡査は、なかなか信じてはくれなかった。僕は確かに少女がSOS信号を送っていたことを力説した。巡査は苦笑した。
「気のせいってことはないの?」
 僕は真剣に訴えた。
「気のせいだ、と、はじめは僕も思ったんです。でも、最後に、その女の子が、曇りガラスに、確かにSOSと、書いたんです。もしも、これを無視して、何かあったら、僕は、僕は・・・、メッセージを託されたのに、その子に、申し訳ないじゃないですか」
 巡査は、しばらくの間、じっと思案顔をしていたが、意を決したように受話器を上げた。
「もしもし、こちら秋葉原交番。緊急連絡です…」

 僕はニュースの画面を見ながら、連行されていく男を見た。メイクが取れて、神経質そうな顔がのぞいていた。逆立てていた髪は、警察ともみあううちにグシャグシャになったのだろう、無残に垂れて、その青白い顔を覆っていた。

 FIN

第三話 斎藤君と佐藤さん

 年々就職難になってきたせいか、採用される新人の数が激減している。
 私の勤めている会社は日本で五指に数えられるIT企業である。ハードもソフトも常に業界をリードする画期的な商品を売り出しており、不景気には無縁だ。それなのに、やはり新人の数が激減しているのは、少数精鋭を採用する方針だからだ。

 激戦をくぐり抜けてきただけのことはあって、新人の優秀さは目を見張るばかりである。私はわが社のソフト開発部に配属されて五年目になるが、毎年新人のあまりの優秀さに圧倒されて、いつリストラされても仕方がない、と既に腹をくくっているくらいだ。

 今年の新入社員は二人。一人は斎藤君。学歴は不明。というのも、彼は長年自室に引き籠もっていて、ほとんど学校らしい学校には行っていないとのことだった。一般常識は皆無に近いが、プログラミングの力は常識人が舌を巻くレベル。天才、と言ってもいい、と彼を見いだした採用担当者は声をうわずらせていた。斎藤君は、わが社のアプリのバグを指摘するのが趣味だったらしい。もう一人は女性で佐藤さんという。日本一難関なことで知られるT大の大学院を中退してきたそうだ。大学院の専攻は全くの畑違い―生命工学科と聞いた―で、プログラムは単なる遊びでやっていたらしいが、面接で、「御社の退屈なソフトを刷新したい」と、のたまったという。

 さて、この二人、入社後のオリエンテーションも欠席、わが社恒例の新入社員と社長の懇親会も欠席して、更に注目を集めた。欠席理由は、新商品の開発中で手が離せない、というものだった。

 入社後わずかひと月で斎藤君がプレゼンを行った。ブレゼン自体は、彼がパワポの画面を向いたきり、ボソボソ喋る意味不明なものだったが、アプリは目を見張るおもしろさ。部屋にいながらにして、大冒険ができる。3Dの探検ソフトで、グーグルアースをゲームにしたようなもの。専用のマウスをスクロールしてナイトを動かし、世界中を歩き回りながら、いたるところに隠れている妖怪や怪獣と戦う。うまくやっつけると、お姫様とその国の人たちが集まってパーティーを開く。妖怪も怪獣も姫も国民も、一人一人をリアルな人間が操作しているので、リアルタイムで世界中の人と一緒に遊ぶことができる、というものだ。老若男女が楽しめる、大ヒット間違いなし、と会議の後、皆が興奮していた。斎藤君はそのアプリを入社前から既に八割程度作っていたらしい。開発部の部長が、オリジナルアプリのスレッドを見て、直にヘッドハンティングしたという噂も聞いた。

 七月の初旬には、佐藤さんが衝撃的なアプリを開発した。コンセプトは、古典的な人生ゲームだが、仮想の世界に暮らす自分のキャラクターを自分の思い描く通りにCGで作ることができる。しかし、もっと美形に、もう少し鼻を高く、と、理想を追求すれば、そこにいちいち課金される仕組みなのだ。家を建てることもできる。豪邸にしたければ課金される。仮想コインは、当然リアルなお金で買わねばならず、仮想世界で理想の暮らしを追い求める人たちのおかげで、我が社は益々肥え太っていくという、まさに濡れ手に粟のアプリだった。発売後半年で、大ブームを巻き起こし、仮想世界で大富豪、現実世界ではこのゲームのせいで借金まみれ、という人が続出し、社会問題になった。

 ともあれ、新人二人の活躍により、彼らの入社一年後には、アプリ部門の売上が前年度の十倍にアップした。斎藤君のボーナスは部長の五倍、佐藤さんはその倍だと、経理の同期からこっそり聞いた。

 私も以前は自分の創造性に自信があったが、もう駄目だと思った。発想が古いし、彼らのように自在なプログラミングが組めない。こうなったら、押しの強さを活かして営業部に異動願いを出そうと心に決めた。 
 まあ、しかし、慌てることもないし、最後にもう一つだけ開発してやろうと腹をくくった。そこで、思いついたのが転職ソフトだ。転職したい人が自分のPCにインストールしておくだけで、仕事の内容を抽出し、履歴に残してくれるというもの。自分で不要な部分を切り取って、簡単に職務経歴書を作成することもできるし、自動的に関連職種の情報収集もしてくれる。情報を公開すれば、自動的にヘッドハンティングソフトされるという機能も付けた。人工知能が、自分のPC上のドキュメントや操作から、思いがけない長所を見出してくれる、という発見もある。これらは自分が使いたいものを考えているうちに自然に思いついて作ってみたソフトだった。
 しかし、なんとこれが大ヒット。日本も欧米並みに転職やヘッドハンティングが一般化してきたらしく、予想以上に需要があった。

 ところが、このソフトを使ってみた斎藤君と佐藤さんが、速攻でアメリカの巨大IT企業にスカウトされてしまった。社長は慌てて年俸を跳ね上げたが、遅かった。おまけに二人以外の開発部の有能な社員が同業他社にイモヅル式で引き抜かれて、わが社は大打撃をこうむってしまった。
 お陰で私は、ソフトがヒットしたにもかかわらず社長にうとまれて、結局子会社に出向させられるはめになった。

 今、私は、子会社で「斎藤君と佐藤さん」という「新入社員研修用ソフト」を開発している。アメリカに行った二人がこれからどう頭角を現すだろうと、内心では興味津々でいるが、嫉妬や妬みも混じっているのは否めない。ついつい、その気持ちがにじみ出てしまい、斎藤君と佐藤さんのCGキャラクターがいささか不細工になってしまう。でも、試作を使った人事部の社員も同じ気持ちなのか、「もっともっと、無能でドジな二人組の設定にしてくれ」というアンケート回答がやけに多いのだ。
 人の気持ちって、わかりやすいよなあ。
     FIN



第二話 幸か不幸か

 俺は2DKのアパートで一人暮らしをしている。軽自動車に乗って週末に近隣をドライブするのが趣味。安月給の不動産会社に勤めている。駅前の小さな不動産屋で、同僚は三人。職種は営業。ただ食うのには困らない程度の稼ぎしかない。
 俺は不幸だ。貧しいから不幸なのではない。一生、悔しくて地団駄を踏むような気持ちを持ち続けなければならないから不幸なのだ。
 いっそのこと、何もなければかえって穏やかな気持ちで生きていただろう。現に、あの日までの俺は、そうだった。たまに同僚と屋台で安酒を飲み、社長の悪口を肴におでんをつつく程度の楽しみしかない生活でも、そこそこ満足していたのだ。しかし、あの爺さんのせいで、こんなに穏やかじゃいられない気持ちを抱え続けなければならないのだ。そう、あの、爺さんのせいで・・・。
 あれは、去年の今頃だった。俺はある晩、残業の帰りに、コンビニの脇で座り込んだ爺さんを見かけた。おれは、わざわざ発進しかけた車から降りて、爺さんに声をかけた。
「大丈夫ですか?」
 すると、爺さんは突然むくっと起き上がり、俺の上着の裾をつかんだ。
「腹が減って死にそうなんだ」
 声には張りがあり、目つきは鋭い。かわいそうではあるが、死にそうというほどの様子ではなかった。普段の俺なら、やんわり爺さんの手をふりほどいて、そのまま立ち去っただろう。だが、あの晩の俺は、いつになく上機嫌だった。三日がかりで案内して回っていたある家族が土地の売買契約を結んでくれたおかげで、俺のボーナスがわずかばかりアップするのを喜んでいたせいだ。俺は、爺さんに同情し、コンビニで400円程度の助六弁当を買って、手渡した。俺も昔、失業していた頃、ひもじい思いをしたことがあった。空腹に耐えるのは辛いものだと、気の毒に思ったからだ。
「うーん。この程度じゃ、せいぜい1000円コースってところだな。」
 弁当を眺め回した後、爺さんはおもむろに、そう言った。意味が分からなかったので、俺は爺さんに聞いた。
「どういうこと?」
 すると、爺さんは、突然しゃきっと立ち上がり、こんな話をした。
「俺は昔このコンビニの辺りにあった祠にまつられていた道祖神じゃ。祠はなくなったし、道に迷う奴もいないし、やることはない。退屈なので、人間に贈り物でもしようと思ってな。そいつの心の優しさによって、三段階に分けたプレゼントを考えたんじゃ。俺を家に連れて帰り、ご飯を食べさせた人間には、永久に好きなだけ金が出てくる財布。次に、俺を警察や病院に連れて行く世話を焼いた人間には、毎日一万円が補充される財布。そして、第三位は、おまえのように、ちょいと何か食い物を恵んでくれた奴。これは、毎日千円の補充がされる財布、というわけじゃよ。あっはっはっは。」
 俺はてっきり、この老人は病気なのだ、と思った。かわいそうに、逆境のあまり、妄想にとらわれた人なのだ、と。だから、もう何も言わず、小さくお辞儀をして車に戻った。すると、爺さんは、俺を追いかけてきて、こう言った。
「でもなあ、おまえはまだ運がいいぞ。さっきの奴なんか、俺を足蹴にしていったから、毎日金を千円なくす魔法をかけてやったわい。いっひっひ・・・。」
 俺はもう薄気味が悪くなって、爺さんに愛想笑いを残し、大急ぎでエンジンをかけた。
 あの爺さんのおぞましい笑い声が耳の底に残り、その晩は悪寒がして眠れなかった。

 半月ほど経った頃、俺はふと、いぶかしく思った。俺は毎日昼飯に六百円程度使う。会社の近くのラーメン屋で昼定食を食うのだ。そして、毎日たばこを一箱買う。だが、月曜に銀行から下ろしてきて財布に入れた二万円が木曜になっても、ほとんど減っていないのだ。
 俺は愕然とした。ひょっとして、あの爺さんの話は本当だったのか?!
 俺はまさかと思ったが、試しに財布を空っぽにしておいた。翌朝見ると、千円入っていた。俺は、俺のくたびれてよれよれになった合皮の財布を穴のあくほど見つめた。俺はこの千円を使ってみた。レジで差し出す時、手が震えた。だが、差し出した途端に葉っぱに変わるなんてこともなく、この千円札は無事に使えた。そしてまた、翌朝には千円がちゃんと入っていた。間違いない。確かに、毎日千円が補充される財布になっていた。
 それからの俺の悔しさったらない。なんで俺はあの晩、あの爺さんを家に連れ帰り、質素でもいいから何か食わせてやらなかったのか、と。せめて、交番に連れて行ってやらなかったのか、と。
 まあ、普通そんなことまではしないのが現代人だ。いくら年寄りだって、車に乗せてやったら急に凶暴にならないとも限らないし、泥棒まがいの奴かもしれないのだ。危ながってそこまではしないのが普通の人間だろう。ああ、しかし、もしもそこまでしていれば、俺は今頃大富豪だ。好きな車に乗って、億ションに住み、会社を立ち上げて、商売にしくじっても怖い者知らず。美女も寄ってくるだろう。外国にも進出し、遊びだって、俺がまだ想像もつかないような刺激的な遊びがあるに違いないのだ。自家用ヨット、自家用飛行機、世界中に別荘も買える。あっ、いけねえ、これを最初に思いつくべきだったが、田舎の父ちゃんと母ちゃんに温泉付きの豪邸を建ててやれたところだったんだぞ!!くっそーっ、それなのに、たかが一日千円かよ!!・・・

 それでも、俺はその財布を大事にした。これはいわば俺のお守りだ。セーフティネットってやつだ。これがあれば、少なくともどんな境遇になっても飢え死にはしないのだから。このご時世、何があるか分からない。俺の勤め先だって、ある朝突然、シャッターが降りているなんてことが、なきにしもあらず、なのだから。
 俺は三万円をはたいて重い金庫を買った。それを押し入れに置いて、財布をしまった。一週間に一度開けて、七千円増えていることを確認し、またうやうやしく金庫にしまう。
 御利益が消えてしまわないように、最近は、金庫の前に盛り塩をし、酒を備え、拝んだりもしている。まあ、無意味かもしれないが、どこかであの爺さんが見ているかもしれない、という気がするからだ。
 もちろん、以前通り、会社ではまじめに働いている。ただ、俺は時折猛烈に悔しくなって、ひそかに地団駄を踏んでしまうのだ。
    FIN

第一話 はじまりの物語  

 朝起きると、すっきりしていた。何か、もやもやした気持ちが一気にリセットされたような、清々しい朝だ。
「はじまりの朝だ。」
 そうつぶやいた。
 身支度をして、朝食を食べていると、二階で足音がする。
 私は驚きのあまり目を見開いた。大あくびをしながら階段を降りてくる見知らぬ男。私は慌ててパジャマの前を押さえた。ボタンが三つ目までだらしなくあいていたからだ。だが、それどころじゃない。女の一人暮らしの家を狙って入ってきた空き巣なのかもしれない。
「ど、どなたですか?」
 声が震えてしまった。
 男は、慣れた様子で向かいのいすに腰掛けると、あくびをかみ殺しながら、
「君のだんなさん」
 と言い、はいこれ、と無造作に私の日記帳を差し出した。それは、十代の頃、誕生日に母からプレゼントされた美しい装丁の分厚い日記帳だった。表紙に「10年日記」と書いてある。間違いなく私の日記帳だ。でも、これは使うのがもったいなくて、何か特別なことがあった日から書き始めようと、引き出しにしまっていたはずだ。怪訝な顔の私に男は、こう言った。
「はじまりのページを読んでごらん」
 なんだか、見知らぬ男とは思えないとても温かい眼差しだったので、私は少し安心して、日記を手に取る。そこにはこう書いてあった。
<病院の吉田先生から日記を書くことを勧められた。私は三年前に交通事故にあって、記憶が二十四時間しか持続しない前行性健忘症という病気になったという。それから毎朝、前の日のことを全部忘れてしまうのだそうだ。だから、毎日、日記を書いて、翌朝それを読むようにしなさい、と。
 今朝起きたときは、男の人がいて驚いたが、彼は私の夫だという。二年前の結婚式の写真も見せてくれた。>
 それから、結婚した日の日記も読んだ。私は、<とても幸せだ>と書いていた。<今日のことは決して忘れたくない>とも。
 私は、いたたまれない気持ちになった。なぜ、こんな病気の私と結婚したの?と聞くと、彼は優しく笑って言った。
「毎日、新しい恋がはじまるなんて、最高に幸せな人生じゃないか」と。
 私は切なくなって彼の胸で思い切り泣いた。今日のこの気持ちを忘れないように、日記に書いておこう。
                                       FIN
                                         
FC2プロフ
最新短編小説
リンク
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
小説・文学
7932位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
オリジナル小説
1974位
アクセスランキングを見る>>
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
プロフィール

立川サリー

Author:立川サリー
立川サリー(ペンネーム)です。
東京の西のはずれ在住。
とにかく何か物語を書くのが好きです。

小説家志望です。
パートタイムで働きながら、文章修行しています。お気に召したら時々読みにいらしてください。
コメントなどをいただけると、大変有り難いです。

検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。